イェゲヴァールドの戦い。これは日本語のウィキペディアのページすら存在しないマイナーな戦いである。
時代は1735年と比較的新しい。この時代の中東情勢は非常にマイナーだった。
そんな中登場した中東史上屈指の天才ナーディルシャーの戦を紹介しようと思う
●ナーディルシャーその人
ナーディル・シャーは貧しい平民出であったと言われる。
しかも若い時には奴隷となったことさえあった。
その後盗賊団の首領になったとも、アフシャール族を乗っとったとも、最初からアフシャール族の族長の息子として生まれたとも。ともかく、斜陽のサファヴィー朝に仕えてギルザイ族が占拠していた本来のサファヴィー朝の首都イスファハーンを奪還する快挙を果たした。
その後も表向きだけではあるが、ナーディルは幼帝アッバースⅢ世の摂政としてホータキー朝を滅ぼしサファヴィー朝のかつての領土をことごとく取り戻す英雄となった。
凄まじい成り上がり。圧倒的な戦争の才能。
同じ遊牧民の帝王だったティムールやジンギスカンも似たような境遇であることから、ナーディルは積極的に彼らと自分を重ね合わせて見たという。
更には落ち目のムガル帝国を完膚なきまでに叩き潰して、直接手は加えなかったもののムガル帝国はナーディルの侵略の直後滅びかけた。
更に注目したいのは、ナーディルの戦争には以下の特徴が見られる事だが……
①:中東というと後進的なイメージがあるかもしれないが、意外にも銃や砲兵を巧みに使いこなしており、本場ヨーロッパ人にも全く引けをとっていない。
②:平気で数倍の相手に真正面から挑みかかる。
絶対的な己の才能への自信。そしてそれは過信ではなかった。
中東のナポレオンと言われるのも頷ける。ただしナポレオンの方が後に生まれているが。
ナーディルは説明不要、とてつもなく強かった訳だがそれはアフガニスタンやムガルなど、まとまりに欠けていた連中相手の話。
西には500年続く帝国オスマン帝国があった。
ナーディルは一時期ヨーロッパをも圧倒したオスマン帝国に戦いを挑む。
数倍の敵に挑むというのに、いつものごとく平気な顔をして。
●イェゲヴァールドの戦い:背景
ナーディルは当時、現代で言うアルメニア、ジョージアなどの主要都市であるイェレヴァン、トビリシを攻囲し、落とそうと企んでいた。
そしてわずか1万5千でアルメニアへと侵入した。
この作戦はわざと少ない兵で出ていって敵の大軍を会戦で撃破するためのエサであったといわれる。
これを好機と思ったオスマン帝国のキョプリュリュ・アブドゥラ・パシャは8万とも12万とも言われる大軍のほか、40門の大砲も用意した上、盛り上がった小さな丘をとって万全の体勢を整えた。
大砲を使う平原の会戦において高所へ陣取ったオスマン帝国のアドバンテージは大きく、絶望的な兵力差もあった。
ところが戦場イェゲヴァールドにてナーディルは臆することなく自信をもって采配を振り、兵士達もそれに従った。
そして戦後にはナーディル自らが「これほどの大勝ちは初めてだ」と評した圧勝が待っていた。
●イェゲヴァールドの戦い
1万5千のペルシア軍、対するオスマン軍は8万。
ただでさえ兵力劣勢でありながらナーディルは信じられない一手を打った。
兵力分散。3000名の精鋭を鬱蒼とした戦場近くの森に放ち、深刻な劣勢下で先に仕掛けたのはまたもナーディル。
劣勢下でも主導権は必ず握りつづけるのがナーディルだった。
この小競り合いは、さっき放った3000の別働隊から注意を逸らす目的があった。
そんな中、ナーディルは2回にわたって丘の上の敵砲兵隊に果敢な突撃を加える。
これにより、敵砲兵の無力化と敵兵の士気低下に成功する。
オスマンの反撃は数では劣るがペルシア砲兵が全て撃退。
ダメ押しとして、さっきまでの戦闘中に森の中をひそかに移動していた3000の精鋭が森からナーディルの合図で出現し、完全に油断していたオスマン帝国軍の横腹に取り付いて、最高のタイミングでペルシア軍の総攻撃も加わり、虚をつかれたオスマン帝国軍は完全に瓦解した。
ペルシア側の損害は軽微。オスマン軍は4万とも言われる大損害だった。
ついでに、ナーディルのあまりの強さに衝撃を受けたイェレヴァンなどの都市は、攻撃によって落ちる前に次々降伏した。
とまあこんな感じでナーディルシャーに最近めっぽうはまってるのでこんな記事を書いていきます。
こうして英雄達の足跡をかわいらしいVtuberとかに紹介させたら人気出るかな(他力本願)
時代は1735年と比較的新しい。この時代の中東情勢は非常にマイナーだった。
そんな中登場した中東史上屈指の天才ナーディルシャーの戦を紹介しようと思う
●ナーディルシャーその人
ナーディル・シャーは貧しい平民出であったと言われる。
しかも若い時には奴隷となったことさえあった。
その後盗賊団の首領になったとも、アフシャール族を乗っとったとも、最初からアフシャール族の族長の息子として生まれたとも。ともかく、斜陽のサファヴィー朝に仕えてギルザイ族が占拠していた本来のサファヴィー朝の首都イスファハーンを奪還する快挙を果たした。
その後も表向きだけではあるが、ナーディルは幼帝アッバースⅢ世の摂政としてホータキー朝を滅ぼしサファヴィー朝のかつての領土をことごとく取り戻す英雄となった。
凄まじい成り上がり。圧倒的な戦争の才能。
同じ遊牧民の帝王だったティムールやジンギスカンも似たような境遇であることから、ナーディルは積極的に彼らと自分を重ね合わせて見たという。
更には落ち目のムガル帝国を完膚なきまでに叩き潰して、直接手は加えなかったもののムガル帝国はナーディルの侵略の直後滅びかけた。
更に注目したいのは、ナーディルの戦争には以下の特徴が見られる事だが……
①:中東というと後進的なイメージがあるかもしれないが、意外にも銃や砲兵を巧みに使いこなしており、本場ヨーロッパ人にも全く引けをとっていない。
②:平気で数倍の相手に真正面から挑みかかる。
絶対的な己の才能への自信。そしてそれは過信ではなかった。
中東のナポレオンと言われるのも頷ける。ただしナポレオンの方が後に生まれているが。
ナーディルは説明不要、とてつもなく強かった訳だがそれはアフガニスタンやムガルなど、まとまりに欠けていた連中相手の話。
西には500年続く帝国オスマン帝国があった。
ナーディルは一時期ヨーロッパをも圧倒したオスマン帝国に戦いを挑む。
数倍の敵に挑むというのに、いつものごとく平気な顔をして。
●イェゲヴァールドの戦い:背景
ナーディルは当時、現代で言うアルメニア、ジョージアなどの主要都市であるイェレヴァン、トビリシを攻囲し、落とそうと企んでいた。
そしてわずか1万5千でアルメニアへと侵入した。
この作戦はわざと少ない兵で出ていって敵の大軍を会戦で撃破するためのエサであったといわれる。
これを好機と思ったオスマン帝国のキョプリュリュ・アブドゥラ・パシャは8万とも12万とも言われる大軍のほか、40門の大砲も用意した上、盛り上がった小さな丘をとって万全の体勢を整えた。
大砲を使う平原の会戦において高所へ陣取ったオスマン帝国のアドバンテージは大きく、絶望的な兵力差もあった。
ところが戦場イェゲヴァールドにてナーディルは臆することなく自信をもって采配を振り、兵士達もそれに従った。
そして戦後にはナーディル自らが「これほどの大勝ちは初めてだ」と評した圧勝が待っていた。
●イェゲヴァールドの戦い
1万5千のペルシア軍、対するオスマン軍は8万。
ただでさえ兵力劣勢でありながらナーディルは信じられない一手を打った。
兵力分散。3000名の精鋭を鬱蒼とした戦場近くの森に放ち、深刻な劣勢下で先に仕掛けたのはまたもナーディル。
劣勢下でも主導権は必ず握りつづけるのがナーディルだった。
この小競り合いは、さっき放った3000の別働隊から注意を逸らす目的があった。
そんな中、ナーディルは2回にわたって丘の上の敵砲兵隊に果敢な突撃を加える。
これにより、敵砲兵の無力化と敵兵の士気低下に成功する。
オスマンの反撃は数では劣るがペルシア砲兵が全て撃退。
ダメ押しとして、さっきまでの戦闘中に森の中をひそかに移動していた3000の精鋭が森からナーディルの合図で出現し、完全に油断していたオスマン帝国軍の横腹に取り付いて、最高のタイミングでペルシア軍の総攻撃も加わり、虚をつかれたオスマン帝国軍は完全に瓦解した。
ペルシア側の損害は軽微。オスマン軍は4万とも言われる大損害だった。
ついでに、ナーディルのあまりの強さに衝撃を受けたイェレヴァンなどの都市は、攻撃によって落ちる前に次々降伏した。
とまあこんな感じでナーディルシャーに最近めっぽうはまってるのでこんな記事を書いていきます。
こうして英雄達の足跡をかわいらしいVtuberとかに紹介させたら人気出るかな(他力本願)